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クスコと近郊の名所 クスコ市内の名所と近郊の遺跡を巡る、半日ツアーに参加した。午後2時に始まって、日がとっぷり暮れるまで、市内はコリカンチャとカテドラル、郊外に出てサクサイワマーン、ケンコー、タンボマチャーイを駆け足で回る。インカの石組みファンの私としては、遺跡見学スペシャルの、のんびり1日コースが欲しいところだ。
インカは太陽神を崇拝し、「太陽神殿」と呼ばれる神殿を帝国の各地に建立した。中でも最も壮麗だったのが、「コリカンチャ」の異名を持つ、帝都クスコの太陽神殿だったという。 コリカンチャでは、安置された巨大な太陽の顔や、神殿の壁を覆う板も黄金製なら、庭に置かれたアンデスのさまざまな動植物の像も、すべて金でできていたというから驚きだ。この神殿が、ケチュア語で「黄金の中庭」を意味する、「コリカンチャ」と呼ばれるようになったのも、自然の成り行きだったのだろう。 コリカンチャは初代インカのマンコ・カパックによって創建され、第10代皇帝インカ・ユパンキが、上述のような装飾を完成させたと伝えられている。 だが、16世紀、クスコを支配下に置いたスペイン人は、コリカンチャの大部分を取り壊し、その上にサント・ドミンゴ僧院(Sant Domingo)を建立した。今となっては、土台の一部やいくつかの部屋を除き、インカの神殿だった当時の姿を目にすることはできない。右上の写真では、僧院の土台に、濃い色をした太陽神殿の壁の名残が見えている。
金の板はとうの昔にはがされ、神殿の壁は石のブロックがむきだしになっているが、壁の石組みそのものがすばらしい。どの石もきれいに研磨され、石と石とのつなぎ目は、わずかなすき間もないほどぴったりと合わさっている。インカ帝国のこの優れた石工技術は、クスコ南方のティティカカ湖周辺に住んでいた、コラという部族によってもたらされたと考えられている。 しっかりした石組みに加えて、インカの建築の特徴である、上にいくに従って幅が狭くなるという台形の設計は、建物の耐震性をいっそう高めた。1950年に大地震がクスコを襲った時、スペイン人が建てた僧院は、ほぼがれきの山と化したのに、インカの壁だけは無傷で立っていたそうだ。 さて、コリカンチャの壁には、「インカ帝国でいちばん小さい石組み」がある。手ぶれしていて見苦しいのだが、左上の写真の、おヘソのようなのがそれ。大人の親指の爪くらいの大きさだ。なんだってこんな石を???「シャレで入れた」と言われても、私は驚かないぞ。そこで思い出すのが、ラパ・ヌイ(イースター島)のアフ・タヒリの石組みである。どこか似てる・・・。
クスコの街を出て、ユーカリ林の山道を車で20分ほど登ると、インカが築いた巨大な石の壁が見えてくる。サクサイワマーン遺跡だ。壁は丘の斜面に沿って3段に造られている。いずれもジグザグに進み、長さは400mにも及ぶ。 いちばん下の段には、大きな石がいくつも使われている。インカ帝国でいちばん重い石も、いちばん幅の広い石も、この段にある。石の大きさもすごいが、大小にかかわらず、どの石もすき間なくきれいに組まれているのには、本当に驚かされる。
科学的、現実的に考えるなら、2つの石を重ねてみて、でこぼこがあったらそれを削って・・・を何度も繰り返した結果だろう。しかし、壁の規模をまのあたりにし、気の遠くなるような労力に思いを馳せると、何だかあり得ないことのように思えてくる。全然別の「非科学的」な方法で、さくさく削って淡々と組み立てていったんじゃないの?と考えたくなってしまうのだ。 どの段も、上の部分は石が所どころなくなり、歯が欠けたようになっているが、これは、スペイン人入植者たちが、自宅の建材用に手頃な大きさの石を持ち去ったからだそうだ。さすがに大きいのは無理だったんだね。 クスコの街は、アンデスの神獣と見なされるピューマの形をしていて、サクサイワマーンはその頭に相当する。こうしたことからも、サクサイワマーンの壁は、クスコを外敵の侵入から守る防壁だと考えられてきたが、近年では、太陽神殿のような宗教施設ではないかともいわれている。
サクサイワマーンから北東方向に少し走ると、大地崇拝の神殿だったといわれる、ケンコー遺跡がある。 日は西に傾き、あたりが次第に薄暗くなっていく中、溶岩流が冷えて固まったような、ごつごつした灰色の岩場の切れ目から、地下空洞へと下りていった。 この空洞では、天井も床も、どこもかしこも天然岩をくり抜いて造られている。その一角に、やはり岩を削って造ったテーブルがあるのだが、出口の明かりが見えてホッとしたのも束の間、そこではリャマなどのいけにえが行われたり、亡くなったインカをミイラにするための防腐処理が施されたらしい、という説明を聞いて、地上へとはやる心は、いやがおうにも地下世界に引き戻されるのであった。
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