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テオティワカン

タスコ
Taxco

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タスコの街並み

ツアーの車はクエルナバカからさらに南下し、ゲレーロ州に入った。サボテンと灌木の山を越えたと思ったら、すぐ目の前にまた山があって、しかも、その斜面一面に、白壁の家があらゆる方角を向いて並んでいた。18世紀の姿をそのまま残す、タスコの街だった。

栄枯盛衰の産業史

16世紀初め、アステカ帝国を征服したスペインのエルナン・コルテスは、タスコの銀山も手中に収めた。タスコの名前は、その銀とともにヨーロッパ中に広まったが、ほどなくして、タスコよりも交通の便が良く、埋蔵量も豊富な鉱脈が、スペイン植民地の中で次々に見つかったため、タスコの銀山は次第にすたれていった。

タスコの街並み
↑昼食をとったレストランのテラスからタスコの街を眺める。

18世紀に入ると、フランス系スペイン人のドン・ホセ・デ・ラ・ボルダが新たな鉱脈を発見し、タスコは再び脚光を浴びた。ボルダは銀で得た富を惜し気なく使い、スパニッシュ・バロック様式の美しい教会である、サンタ・プリスカ・カテドラルを建てて、タスコの街に寄贈した(ページ冒頭の写真・右上の大きな教会)。他の鉱山王たちも、タスコに教会や学校、道路を次々と作った。このページの写真にも見えている、オレンジ色の瓦を乗せた白壁の住宅は、そのころ建てられたものである。

タスコは銀山ばかりでなく、銀細工の街としても有名になっていたが、19世紀、スペインの植民地支配に対する独立運動が起こると、メキシコ人に明け渡すくらいならと、スペイン人鉱山王たちが銀山を破壊したため、鉱業の衰退とともに、銀細工の技術も細っていった。

しかし、かつてタスコでメキシコ文化を学んだ米国人スプラットリングが、1929年、タスコに移り住んだことにより、タスコの銀細工は再び息を吹き返した。スプラットリングは、埋もれた銀細工のデザイナーを発掘して育てた。タスコに工房がいくつも生まれ、今日に至っている。

タスコを歩く

山の斜面一面に、家々があまりにびっしり詰まっているので、遠くから街を眺めた時、「どうやって登るのだろうか?道がありそうに見えないけど・・・」と、不思議だった。家があるのだから、当然、何らかの道があって、そこまで行けるはずなのに。実際、街の中を歩いてみると、道は確かに狭く、迷路のように入り組んでいるが、どうにか対面通行できる車道もあるし、路地のない所は階段が玄関先まで伸びている。

山の上には、サンタ・プリスカ・カテドラルと並んで、ソカロ(中央広場)がある。その日はちょうどお祭りで、ソカロには人が大勢集まり、楽隊や大道芸人が出し物の準備をしていた。曲がりくねった狭い路地を歩くと、楽器の音が追いかけてきた。

サンタ・プリスカ・カテドラル脇の坂道には、天井代わりに白い布を張った、民芸品を売る出店が並んでいる。素焼きの小物入れや壁飾りに筆で色を付けながら、客待ちしている売り子さんもいた。

露店街が終わると、白壁の小さな家が立ち並ぶ路地に出た。民芸品や銀細工の専門店が何軒かあり、中をのぞいてみたかったが、路地にはあちこちに枝道があって、道に迷いそうだった。地図もない、スペイン語もわからない私は、ツアーの集合時間に間に合う自信がなかったので、無謀な探検は思いとどまったのだった。

タスコの街角タスコの街角
タスコの街角タスコのおみやげ屋さん
タスコの街角タスコの街角

上から2列目・右の写真は、サンタ・プリスカ・カテドラルの坂下にある、民芸品店の店内だ。カメラを首からぶら下げながら、お店の中をちょっとのぞき込んだら、お店のご主人が「中に入って写真を撮っていってよ!」と招き入れてくれた。こぢんまりしたお店が多いタスコには珍しく、2階建ての広々したお店で、どの壁にも、色とりどりの壁飾りが所狭しとかかっていた。

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