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 Peter Brook演出「ハムレットの悲劇」評 

The Tragedy of Hamlet(ハムレットの悲劇)
Peter Brook脚色・演出
2001年6月29日、世田谷パブリックシアター

演劇はめったに見に行かないが、Peter Brook演出の作品はできるだけ見るようにしている。私にとって、テレビ映画版の「マハ・バーラタ」が、Peter Brookとの初めての出会いだった。以来、Peter Brookが書いた本も何冊か読んでいる。芸術に対する彼の姿勢には、大きな共感が持てる。これらの本は、私の人生の教科書ともなっている。

今回の上演は「ハムレットの悲劇」だ。英語であるが、世田谷パブリックシアターには字幕上映のシステムがある。したがって、英語がわからなくてもだいじょうぶだ。しかしPeter Brookは台詞に凝る人なので、可能な限り字幕を見ないで理解できるようにと、シェイクスピアの『ハムレット』を読んで、事前に勉強していった。

期待と不安を感じながら、上演を待つ。原作の『ハムレット』からいくらかカットされているとはいえ、2時間半弱の演劇に飽きるのではないかと思っていたのだ。しかし、冒頭の前王の亡霊のシーンから、一気に演劇の中に引き込まれてしまった。

舞台と観客とが身近になるように観客席が工夫されていて、前の何列かが取り払われれていた。私の席は前から3列目で、役者の息遣いもわかるほどの良い席であった。舞台の設定の面白さもさることながら、各小道具のシンプルさが際立っていた。舞台に大きく広げられたカーペット、数個のクッション、小さな机、小さなカーペット類、その他、どの小道具もシンプルでありながら、各場面でこれ以上にない重要な役割を演じていた。

また、その時その時の舞台設定を黒子がやるのではなく、役者自身が行うのだが、それがまるで演劇の一部のように自然で、当たり前のように進行していった。

ハムレットを演じるAdrian Lesterの演技は、すばらしかった。語りかけるようなその演技に、観客もこの作品の一部だということに気づかされる。また、ハムレットの悩みである、「自分は何であるのか」を、まるでAdrian Lester自身の悩みでもあるかのように演じていく。

音楽は生演奏で、日本の土取利行が担当していた。プログラムにも書いてあるように、一部を除いて、前もって音楽を作ってあるわけではなく、即興的なものだ。それは単なるBGMではなく、この演劇で役柄を与えられてない役であり道具であり、非常に重要なものであった。

仮想現実を産み出すのに、コンピュータグラフィックスやホログラムは必要ない。例えばオフィーリアが狂死し、その亡骸を葬るとき、兄のレアティーズが亡骸を抱きかかえて嘆き悲しむ場面があるが、レアティーズが抱えているのは[人]ではなく、[赤い布切れ]であった。だが、それは布切れと見えて、実は布切れなどではなく、舞台によって[オフィーリアの亡骸]という命を吹き込まれた、亡骸そのものなのである。

『ハムレット』を読んだときには感じなかったが、ホレーシオの役割の重要性を、この演劇の最初から感じていた。ついに王も女王もレアティーズも死んでしまい、ハムレットも死を迎えようとするとき、ホレーシオも自害しようとするのだが、ハムレットに止められる。そしてホレーシオは、ハムレットの意志を引き継ぐために生きていく。最後にホレーシオが語ったとき、ホレーシオの目に見えていた朝日は、私たち観客の目にも投影されていた。それは、ホレーシオに残された課題が、実は観客の我々にも残された課題でもあるということを、認識させるのであった。

yo!!
July, 2001
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